自由的弁証論(下)

《前半》
https://dasweisswasser.hatenablog.com/entry/2020/05/30/005521



対象として見られた人間は、あるいは自身を対象として理解する人間は、自身の自由を有限の選択肢という条件のもとでしか表象できない。
それにも拘らず、真の自由は無(際)限でなければならないことを知っている。

対象として見られた人間は、自由を端的に与えられたものとして表象するので、自身に与えられた自由を確信しており、意識とともに常に完全な自由が展開されることを期待している。
いま、このように期待を裏切られた意識は、聞いていたのと話が違うことの償いを、自由を与えた主体である神に訴える訳にもいかないので、現実世界に求めることになる。
つまり、選ぶという行為が常に無限でないことを否定しようとする。

(そこで、人は、たとえば自分は空を飛ぶこともできる、などと考えるが、もちろん空を飛ぶことはできない。
それどころか、そのような発想を得てしまったことによって、自分自身の空想力がいかに乏しいか、貧弱で通り一遍であるかを痛感する。
人は、自分には思想すら無限ではないということを理解する。)

と同時に、意識自身のうちにもう一つの側面があり、それは選択を自分に迫るものであることを見る。
所与であるはずの選択肢を与えているのが自分自身を除いては存在しないことを確認する。

だが、意識にとっては選択肢が限られていることこそが問題なのであり、それを与える主体が何であれそれを否定することこそが目下のところ自分の使命だと思っている。
だから、意識は自分自身である意識自体を否定しなければならない。

これは困難な事業に見えるが、実際には意識は喜んでこの仕事に取り掛かる。

このときに持ち出されるのが、選択の負荷の問題である。
考えられる最も自由な選択においては、私たちはどちらを選んでも得られるものは何も変わらないのだ、という事実を示すことによって、結局選択などあってないようなものだということを説得するのである。

そうして、意識は、自らにとってはいっさいの選択という行為が自身の働きと相容れないものであることを確認する。選択そのものを否定する。
当然のことながら、有限性を否定すれば無限性に至るのではなく端的に無になる。
意識は、不自由を否定したいばかりに自由そのものの余地を否定するのである。

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このように意識を支配し、自己を否定するよう突き動かすのは、自由の概念である。
自由の概念は、ただ自らの理想的(観念的)な姿を彼岸に投影するだけで、意識に内部分裂を生じさせ、最終的には絶対的な自己否定へと導くことができる。

意識はというと、もはや自己否定に陥らざるを得なくなると認識した時点で、自由という概念を信じることができなくなっていた。
意識が自己を否定して不自由の境地へと至ることに躊躇いがなかったのは、そのようにすることで否定されるものが本当は自己ではなく自由の概念であることを知っていたからである。

そこで意識は何と言ったかというと、「選択などあってないようなものだ」と言ったのである。
そうして、あらゆる選択の実在を否定する。

だが、人間が息を止めて自死することができないように、精神は自身への挑戦だけで自死することはできない。
精神の本質は、自身を肯定するところにあるからである。

あらゆる選択肢を否定したとき、意識は「どれを選んでも変わらない」と主張したのだが、これは言い換えれば、どれを選んでも一つの選択肢に収束するという意味である。
ここに、意識は実は自己を否定せずに済ませる余地を残しておいたのであった。

意識の自己否定だと思われたものが実は理想的(観念的)な自由の否定に過ぎないと言うことが理解されたとき、意識はもはや文字通り躊躇う必要はなくなった。
自身を損なうことがないと理解されたいま、全ての選択肢を、理由もなく否定することすら、可能なのである。

そうすることで、常にただ一つの道として意識に現れていた現実世界は、道として表象される契機を失う。

道でない世界においては、意識はもはや「歩む」必要はなく、「進む」ことも「戻る」こともない。
それでいて、進むことも歩むこともできるようになる。

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ところで、このような世界の表象は、すぐにでも否定されなければならない。
そうでなければ、再び、理想的(観念的)な自由が意識に獲得されるからである。

自由的弁証論(上)

自由についてということなら、ひとは何でも書くことができる。

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たとえば、中身の分からない福袋を一つ「選ぶ」、という場合がある。

あなたはどの福袋から何が得られるか事前に知ってはいないし、それどころか見当もつかないものとする。
福袋はどれも、大きさ、重さ、振った時の音など大して変わりなく思えるし、またいずれにしろ、重かったら何が入っているはずだという予測も持っていない。

このような場合でも、あなたはそれを「選んで」いるのか。

明らかに、選んでいるのである。

(見方次第では、これこそが最も自由な選択行為だとも言える。
選ぶという行為には、よく行為者の「合理性」が反映されると想定されている。ひとは、合理的に判断して、リターンの大きい方を選択すると考えられている。
逆に、これを選んだということは、これがその人にとって最もリターンの大きい選択肢なのだろうと推測されたりもする。)

だが、選ぶという行為に合理性が必須なのかというと、そうではない。
合理的に判断する余地をすべて取り去っても、やはりひとは選ぶことができる。
福袋の場合のように。

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もっと「負荷」の少ない選択もある。
あなたが歩き出すとき、右足から開始するか、左足から開始するか、そのような選択がある。

歩いている最中には、足の運びにかんして選択の余地はないが、それでも今度は手を伸ばしてみるか曲げてみるか、あるいは回してみるかの選択がある。そのような無数の選択が目の前に展開されるのを見る。
これが展開されるのは、あなたがそこに自由を見て取ったからであり、そうでなければ腕はただ歩調に合わせて揺れるに過ぎない。
無為に揺られる腕は自由ではない。

あなたが意識したところに、自由が展開したのである。

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私たちは自由とは何かを知っている。
真に自由であるものは無(際)限でなければならない。

だから、どっちの足を出すかといった選択や、腕をどうするという考えは、実は全く自由ではないということに気がつく。
そこに負荷がないから、ではない。どちらを選んでも変わらないから、ではない。

真の自由は無根拠でもなければならないと私たちは考えている。
こちらのほうが得だから、というような判断は(本当は根拠にはなりえないのだが)選択の根拠であるかのように感じられる。
利得に基づいて働くのは、利益に縛られて働くことであるように思われる。
このような場合、もはや私たちは自身が働いてはいないと考える。

選択が損か得かの問題であるとき、それは自由な選択ではないと見做されるから、そこでは私たちは働かない。
負荷がない選択であっても、やはり私たちは働かない。
人間的に働くということは自由に働くということでなければならないからである。

選択肢が与えられる場面では、人間的な働きはない。


《後半》
https://dasweisswasser.hatenablog.com/entry/2020/05/30/005603

どうして私は一からやり直すのか…?

やり直すことの理由は分からなかった。
ただし、あらゆることは必然なのだと思った。

そうだ、あらゆることに必然性があるのだ、と私たちは考えた。

必然性に囚われたままでいるから、私たちは有限なのだと私たちは言った。
有限であることを宣言することが自身の限界を超出する行為であった。

それは「本当の」限界に達していなかったからだと私たちは考えた。
超出しようとしても、本当には超えられない境界があるのだと信じた。

本当の境界とは、それが本当の境界である限りで、意味のないものになる、ということを私たちは知っていた。
存在するということに意味のないものがそこに存在しなければならないという厳とした事実に私たちは息をのんだ。

もはや私たちの有限性は、閉ざされたものではなかった。線で囲まれたものではなかった。
意味のないものの存在を見つめ続けることが、私たちの有限性であると知った。

それは透明であった。
世界は透明であった。
何もないままに、遥かの果てまで広がっていた。


私は、だから、理由は分からないままだけど、これを見ていようと思った。