自由的弁証論(上)

自由についてということなら、ひとは何でも書くことができる。

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たとえば、中身の分からない福袋を一つ「選ぶ」、という場合がある。

あなたはどの福袋から何が得られるか事前に知ってはいないし、それどころか見当もつかないものとする。
福袋はどれも、大きさ、重さ、振った時の音など大して変わりなく思えるし、またいずれにしろ、重かったら何が入っているはずだという予測も持っていない。

このような場合でも、あなたはそれを「選んで」いるのか。

明らかに、選んでいるのである。

(見方次第では、これこそが最も自由な選択行為だとも言える。
選ぶという行為には、よく行為者の「合理性」が反映されると想定されている。ひとは、合理的に判断して、リターンの大きい方を選択すると考えられている。
逆に、これを選んだということは、これがその人にとって最もリターンの大きい選択肢なのだろうと推測されたりもする。)

だが、選ぶという行為に合理性が必須なのかというと、そうではない。
合理的に判断する余地をすべて取り去っても、やはりひとは選ぶことができる。
福袋の場合のように。

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もっと「負荷」の少ない選択もある。
あなたが歩き出すとき、右足から開始するか、左足から開始するか、そのような選択がある。

歩いている最中には、足の運びにかんして選択の余地はないが、それでも今度は手を伸ばしてみるか曲げてみるか、あるいは回してみるかの選択がある。そのような無数の選択が目の前に展開されるのを見る。
これが展開されるのは、あなたがそこに自由を見て取ったからであり、そうでなければ腕はただ歩調に合わせて揺れるに過ぎない。
無為に揺られる腕は自由ではない。

あなたが意識したところに、自由が展開したのである。

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私たちは自由とは何かを知っている。
真に自由であるものは無(際)限でなければならない。

だから、どっちの足を出すかといった選択や、腕をどうするという考えは、実は全く自由ではないということに気がつく。
そこに負荷がないから、ではない。どちらを選んでも変わらないから、ではない。

真の自由は無根拠でもなければならないと私たちは考えている。
こちらのほうが得だから、というような判断は(本当は根拠にはなりえないのだが)選択の根拠であるかのように感じられる。
利得に基づいて働くのは、利益に縛られて働くことであるように思われる。
このような場合、もはや私たちは自身が働いてはいないと考える。

選択が損か得かの問題であるとき、それは自由な選択ではないと見做されるから、そこでは私たちは働かない。
負荷がない選択であっても、やはり私たちは働かない。
人間的に働くということは自由に働くということでなければならないからである。

選択肢が与えられる場面では、人間的な働きはない。


《後半》
https://dasweisswasser.hatenablog.com/entry/2020/05/30/005603